本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星(45P)
以前は、「本田・ムルコス・パジュサコバ彗星」と呼ばれていましたが、近年は原語に近い表記をする流れが主流となり、「本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星」と表すのが一般的となりました。 1948年12月3日(世界時)、岡山県の本田実氏(倉敷天文台:日本初の民間天文台)が彗星ルーチン捜索中に新彗星を発見しました。 彼は、12月5日に確認観測をし、9等の拡散した彗星、と記述しています。 12月6日にはスロバキアのリュドミラ・パイドゥシャーコヴァー氏(Ľudmila Pajdušáková:女性天文学者,スカルナテー・プレソ天文台)、7日にはチェコ出身のアントニーン・ムルコス(Antonin Mrkos,スカルナテー・プレソ天文台)がそれぞれ独立発見しています。 当時の彗星の命名は、現在のような発見時間の早い順に発見者の名前が付くのではなく、アルファベット順に命名されるのが慣例であったため、 Honda-Mrkos-Pajdušáková(本田-ムルコス-パイドゥシャーコヴァー) と命名されました。 翌1949年1月に、この彗星の軌道は、周期5年少々の楕円軌道であることが判明しています。 近年の観測によると、核の大きさが900m程度の中年齢で小型の彗星に分類されていて、木星族の彗星(周期が20年未満)とされています。 この彗星の周期は、惑星(主に木星)の摂動により変化します。 軌道分析によると1933年には5.5年でしたが、1935年に木星に0.08AUまで近づき、5.3年になりました。 発見時の1948年には5.2年で、2014年現在は、5.3年となっています。 2011年と2017年の回帰は、地球からそれぞれ0.060AU、0.083AUまで接近し、6等級ほどの明るさになり、夜空を飾りました。 2022年の回帰時にも、増光し7~8等級で観測されています。 周期彗星としては、日本人の名前が付いた最初の彗星であり、当時の日本はアメリカ占領下で、海外への情報発信がままならない中、 新聞社のAP電がこのことを全世界に伝え、本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星として、日本人の名前が世界で注目されることとなった意義は大きかったとされています。 また、アントニーン・ムルコスとリュドミラ・パイドゥシャーコヴァーは、事実上結婚していたという説もあります。 |
2011-09-30 (1) 古山茂 |
2011-09-30 (2) 甲斐雅一 |
2011-10-08 (1) 古山茂 |
2011-10-08 (2) 甲斐雅一 |
2011-10-27 古山茂 |
2011-10-28 古山茂 |
2011-11-16 古山茂 |
2022-09-23 久保庭敦男 |
2022-09-24 野口敏秀 |
2022-09-24 久保庭敦男 |