クロンメリン彗星(27P)
この彗星は、もともと3つの別々な彗星として考えられていた、ポン彗星(1818 II),コッジャ・ウィンネッケ彗星(1873 VII),フォーブズ彗星(1928
III)が、イギリスのクロンメリン氏(Andrew Claude de la Cherois Crommelin)の軌道計算によって、同一の彗星であることが1929年に判明し、それを受けて「ポン・コッジャ・ウインネッケ・フォーブズ彗星」と呼ぶことになりましたが、軌道を計算したクロンメリン氏にちなんで、1948年に「27P/クロンメリン彗星」という名前に改名されました。 周期は、27.4年とされています。 この彗星の発見経緯は以下の通りです。 最初の発見は、1818年2月23.78日(世界時:以下同様)、フランスのジャン・ルイ・ポン氏(Jean-Louis Pons)によるもので、彼の彗星ルーチン捜索中に、くじら座でこの彗星を発見しました。 彼は以下のように述べています。 「裸眼では見えず、コマはそれほど広がっておらず、中央に行くにしたがって明るくなっている。尾は無い。」 その後、2月24日と26日にもこの彗星を観測していますが、27.78日の観測を最後に天候が悪化し、ポン氏は、この彗星を2度と見ることが出来ませんでした。 ドイツのヨハン・フランツ・エンケ氏(Johann Franz Encke)をはじめ何人かが軌道計算を試みましたが、算出された値には大きな誤差があり、周期までは特定出来ませんでした。(ポン彗星) 2回目の発見は1873年のことで、フランス・マルセイユのジェローム・E・コッジャ氏(Jerome Eugene Coggia)とフランス・ストラスブールのフリードリヒ・A・T・ヴィネッケ氏(Friedrich August Theodor Winnecke)によるものです。 コッジャ氏は、1973年11月10.84日、ヘルクレス座で発見しました。淡くて南西へ移動している、と述べています。 彼は翌日の11.78日にも同彗星を観測していて、淡くて中央集光がある、と述べています。 また、11月11.73日には、ヴィネッケ氏もこの彗星を独立発見していて、周囲が青白い輝きで取り囲まれた視直径3′の青白い円盤に見えた、と言っています。 彼は翌日の12.76日に確認観測をし、彗星は視直径6′の均一の輝きをしている、と言っています。 その後、他の天文台でも同じような数個の観測がなされましたが、11月16日には再び見失われてしまいました。(コッジャ・ウィンネッケ彗星) 3回目の発見は、1928年のことです。11月19日に南アフリカのアレクサンダー・フォーブズ氏(Alexander Forbes Irvine Forbes)が約6等の彗星を発見しました。 21.08日に南アフリカ・ユニオン天文台のハリー・エドウィン・ウッド氏(Harry Edwin Wood)によって確認観測がなされ、光度は、やはり6等と見積もられています。 この彗星は、1928年12月24日まで、世界中の大きな天文台によって追跡されました。(フォーブズ彗星) また、フランスのフラマリオン天文台(Flammarion Observatory, Juvisy, France)では、10月25日に撮影した写真乾板に、この彗星が写っているのが見つかったことも報告されています。 さらに、日本の山崎正光氏(水沢緯度観測所)は、フォーブス氏の発見よりも前の10月26日にこの彗星を発見していました。 彼は詳細なスケッチを取り、その後の動きを観測していましたが、雲が出てきてしまい、動きが明らかではないので、次の日に再度観測しようとしましたが、悪天と月明かりが確認観測の妨げとなり、11月10日まで観測することが出来ませんでした。 しかし、ようやく観測出来たその11月10日には、彗星は予想位置付近にはなく、見失ってしまったのです。 山崎氏は、10月26日の発見時、東京天文台(現在は国立天文台)に通報だけはしておいたのですが、19日のフォーブズ氏の発見を受けて、東京天文台は山崎氏が記録したスケッチを送るように申し入れをしてきました。 そして、このスケッチを元にしてクロンメリン氏が軌道計算をして、山崎氏とフォーブス氏の発見した2つの彗星が同一彗星であることが明らかになりました。 これによって、山崎氏の彗星発見が確定した訳ですが、残念ながらこの彗星に山崎氏の名前は付けられませんでした。 しかし、山崎氏は、この彗星発見の功労が認められ、新彗星などの発見者に送られるドノホー賞(アメリカ太平洋天文学会).が授与されています。 2011年の回帰は、見かけの上で太陽に近く、観測が非常に困難でした。 |
2011-06-29 古山茂 |
2011-07-10 古山茂 |
2011-07-15 古山茂 |